能年玲奈
“小学生の頃、母親がテニスサークルに通い始めて、時々家を空けるようになりました。 私は最初、とても驚いて戸惑いました。お母さんというのはいつも家にいる人だと思っていましたし、お母さんが家族と一緒に晩御飯を食べないなんて想像を超えた事態のように思えました。 寂しさがなかったといえば嘘になります。手早く食事を用意して、 「これとこれはちょっとあっためて食べなさい。こっちはそのままで大丈夫」 などと指示をする母親は明らかにうきうきと楽しそうでした。自分たちを置いて出かけることを母親が楽しみにしているんだと感じた時、やっぱり多少のショックはあったのです。 ですがそれは、ほんの短い間だけのこと。 母が出かける最初の日、父親は張り切った様子で帰宅すると、こう宣言しました。 「今日は『北斗の拳』を見るぞ」 妹と私は、驚きのあまりぽかんと口を開けました。 「PTAで言われたんだけど、『北斗の拳』というアニメは暴力的な描写が多くて、子供に見せないほうがいいんですって。うちはもともと見てないから、別に見なくてもいいでしょ?」 以前に母がそう言ったとき、逆に私は『北斗の拳』とやらを見たくてたまらなくなりました。そんなにも残酷なアニメって、すごくすごく面白そう! ですが「残酷さ故にそのアニメが見たいです」などというのは子供心にどうも言い出しづらく、私は『北斗の拳』に激しく憧れつつも見たことがなかったのです。 その夜、妹と私はひでぶだのあべしだの叫びながら敵キャラが無残に殺されていくアニメを大喜びで見ました。予想通りとても面白くて、母親の前で鑑賞するのはじゃっかん気がとがめるような内容でした。 その間に、父は炭酸水にガムシロップをまぜレモン汁を絞って、お手製のサイダーを用意してくれました。 私はそれまで、サイダーというのは店や自動販売機で買わないと飲めないものだと思っていました。そんなものが家で作れるなんて考えたこともなく、お父さんはすごい、と大騒ぎしました。 おいしいおいしい、お父さんかっこいい、おかわりちょうだい、と大興奮の私たち姉妹に父は、 「これは内緒のサイダーだから一杯だけだ」 と重々しく告げ、私たちががっかりすると 「その代わり、お母さんが出かけたらまた作ってやる」 と言いました。 そしてまた私たちは、うれしいうれしい、お父さんありがとう、と父にしがみついたのでした。 懐かしの味、というと私はよく父のお手製サイダーのことを思い出します。 その後、娘たちの好評に気をよくした父は大量の炭酸水を買い込んで、いろいろと味付けを工夫していました。 新作のサイダーを飲みながら父と一緒にテレビを見たのは、子供時代の幸福な記憶のひとつです。子供向けの番組にはあまり興味を示さない母と違って、父は子供に近い目線でアニメを一緒に楽しんでくれる人でした。 母がいない間に、みんなで母の日のプレゼントをこっそり用意したこともありました。母に内緒で父がおもちゃ屋さんや本屋さんに連れて行ってくれたこともありました。どれも良い思い出です。 だから私は、母が時折家を空けるようになったことに対して、ちっとも嫌な印象がないのです。母がいなかったからこそいつもと違う親密な時間を父と過ごせて、それはそれでとても楽しく幸せでした。 自分がそうやって楽しく過ごせていたからこそ、テニスサークルに出かけていく母のうきうきした様子を「お母さんも楽しそうでよかった」と素直に思えるようになりました。 父は父で、私たちと過ごす時間を楽しんでくれていたと思います。”
— 父が子育て身代金を減額した話 - wHite_caKe (via rabbitboy)